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コラム

車を置いて、はじまる旅。

― 奥飛騨に泊まると、旅は少しだけ贅沢になる ―

旅に出ると、つい車で目的地まで行きたくなる。
埼玉にいた頃、車は目的地へ行くためのものだった。
でも、奥飛騨へ来て、車を置くところからはじまる旅があることを知った。

その旅のはじまりが、平湯温泉だった。
朝、宿から歩いて平湯バスターミナルへと向かう。
車のキーはポケットに入ったまま。今日はもう、ハンドルを握らない。
その小さな解放感だけで、旅のはじまり方がいつもと少し違って感じられた。
乗車するのは、「乗鞍ライチョウルート周遊バス」。
奥飛騨温泉郷を起点に、乗鞍畳平、乗鞍高原、上高地を一日で巡るルートだ。
乗鞍も上高地もマイカー規制がある場所だから、自分で回ろうとすると苦労するのだが、
このバスなら、ガイドさんの話を聞きながら山の景色を眺めているだけで、
目的地へ連れて行ってくれる。運転しなくて良いのだ。
たったそれだけで、景色の見え方まで変わる不思議で魅力的な体験がはじまった。

平湯を出発すると、バスは乗鞍スカイラインをゆっくり登っていく。
窓の外を眺めていて、あることに気づいた。
木が、少しずつ低くなっていく。
最初は背の高い森だった景色が、白樺へ変わり、さらに標高を上げると、背丈の低いハイマツへ。
森が終わると、空がぐっと近づいた。山そのものが少しずつ姿を変えていく。
車窓を眺めているだけなのに、山を登っていることを景色が教えてくれる。

ほんの数十分前までいた世界とは、まるで違う場所へ来たようだった。
そんな変化を車窓からゆっくり眺められるのも、バス旅の醍醐味に思えた。

そして、標高2,702メートル。
日本一標高の高いバスターミナル、乗鞍畳平へ。
標高の数字より先に、身体がその高さを感じていた。

空気が冷たい。光が近い。空が広い。
思わず深呼吸したくなる空気だった。
平湯の涼しさや雰囲気とは一味違う世界が待っていた。
花畑をゆっくり歩く人。カメラを手に景色を眺める人。魔王岳へ向かう人。
そして、その先にある剣ヶ峰を目指して、本格的な装備で歩いていく人たちもいる。

乗鞍岳の主峰・剣ヶ峰は、標高3,026メートル。
日本に21座しかない3,000m峰のひとつだ。
同じ畳平に立っていても、ここでの過ごし方は人それぞれだった。
景色を眺めるだけでもいい。少し歩いてみるのもいい。
そして、いつかあの頂を目指す旅があってもいい。

そんな人たちを眺めていると、ここは絶景を楽しむ場所であると同時に、
山へ入っていくための「入口」でもあるんだと気づいた。
開放的な気分に包まれたまま、ぼくは、往復30分ほどの登山で魔王岳へ登った。
自分の足で登って見る景色は、ただ「きれい」では終わらない。
その景色は、不思議なほど記憶に残る。
その先に見える剣ヶ峰を眺めながら、
「次は、あそこまで行ってみたい。」
そんな気持ちに包まれていた。

このルートの名前にもなっているライチョウは、乗鞍岳が国内有数の生息地として知られている。
今回、姿を見ることはできなかったが、今もこの山のどこかで暮らしている。
そう思うだけで、この景色が少し特別なものに感じられた。
旅は、見ることだけが思い出になるわけじゃない。
この地で、確かに生きている命を想像する時間も、旅の一部なんだと思う。

畳平をあとにすると、景色はまた少しずつ変化する。
乗鞍高原では、乗鞍岳を見上げる側になり、
同じ山なのに、さっきとはまったく違う表情を見せてくれる。
ここでは、お昼を食べる人もいれば、E-bikeで高原を走る人もいる。
ぼくが気に入ったのは、乗鞍自然保護センターだ。
この山に暮らす動物や植物、生態系を知ると、
さっきまで見ていた景色が、少しだけ違って見えてくる。
知ることで面白くなることを、改めて教えてくれる場所なのかもしれない。

そして、旅の最後は、楽しみにしていた上高地。
何度見ても、この景色だけは特別だと思う。
一日の終わりに訪れるからこそ、感じることがある。
朝は山を見上げるように旅がはじまり、畳平では山と同じ目線になり、
最後は、もう一度山を見上げる。
たった一日なのに、北アルプスとの距離感が何度も変わる。
山を見てまわったというより、
山の中で一日を過ごしてきた。
そんな感覚になっていた。

夕方になり、平湯温泉へ戻ってきた。
県境を越えて、標高2,700メートルまで登って、
山を見上げたり、同じ目線で眺めたり。
一日かけて、北アルプスをぐるりと一周してきた贅沢な時間。

その心地よい余韻が、まだ身体に残っていた。
そして、そのまま「ひらゆの森」の露天風呂へ。
湯に浸かると、今日見てきた山々が、ゆっくり頭の中を流れていく。
朝、「きれいな景色を見に行こう。」
そんな気持ちで出発した自分と、今の自分。
同じ場所へ戻ってきたはずなのに、
旅の見え方が少しだけ変わっていた。

北アルプスとの距離を変えながら旅をしているうちに、
自分と自然との距離も、少しだけ近づいていたのかもしれない。
奥飛騨に泊まる理由が、また一つ増えた。

よし、次も、車を置いて旅に出よう。

― 書き手 ―

河野 光 / 埼玉県出身。奥飛騨温泉郷観光協会 地域おこし協力隊。
外から来た視点で、この土地の違和感や魅力を探している。
最近は、「どこに行くか」よりも、「どんな時間を過ごすか」が気になるようになってきた。

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