埼玉にいた頃、夏は、勝手にやって来るものだった。
気づけば暑くなっていて、気づけばはじまっている。
ぼくにとっての夏は、そんな季節だった。
でも、奥飛騨で迎える夏は、少し違う。ここでの夏は「たどり着くもの」だった。
半年近くが冬と言えるこの土地で暮らしていると、
次の季節を待つ感覚そのものが、少しずつ変わってくる。
春は、都市部より少し遅れてやってくる。秋は少し早く去り、冬は長く深く続く。
マイナス10度まで下がる日もあるこの場所で、長い冬を越えたあとに訪れる季節は、
どれも特別な意味を持つようになる。
桜や新緑を待ち焦がれた、その延長線上に、ようやく、やっと夏が立ち上がってくるのだ。

冬の奥飛騨は、一面が白銀の世界。音が吸い込まれていくような静けさと、澄みきった空気。
その景色が、ある時期を境に、ゆっくりと変わりはじめる。
気づけば、雪がほどけ、地面が顔を出し、色の数が少しずつ増えていく。
そして、ほんの短い期間のうちに、その世界は一気に深い緑に覆われる。
白銀から深緑へ。
その変化の密度と速さは、都市部で過ごしていた頃には感じたことのないものだった。
ぼくは、高山方面から奥飛騨へ向かう道を、何度も走った。
最初は気づかなかったけれど、あるとき、はっきりとわかる瞬間があった。
平湯峠を越えた、その瞬間、それまで遠くに見えていた山々が、
急に自分のすぐそばに迫っきたのだ。
見ている景色から、「包まれている場所」へ。目にしていた物の距離感が、一気に変わる。
何度この場所を通っても、心が動く感覚。
奥飛騨へ帰ってきたな、と感じる瞬間でもある。

夏がはじまる少し前の峠道、見上げれば、まだ雪の残る山。目の前には、濃くなり始めた緑。
その道中では、動物たちの気配がある。
カモシカや猿、鹿。運が良ければ、オコジョにも出会う。
足元には山菜が顔を出し、空気の中には、土と水の匂いが混ざっている。
冬の名残と、生命の気配と、大地の恵み。それらが、ひとつの景色の中に、同時に存在している。
奥飛騨では、季節はが折り重なりながら存在している。
そう感じた時に、この土地の壮大なスケールをはじめて身体で理解できた気がした。
栃尾温泉は約800メートル。平湯温泉は約1,300メートル。
さらに上がれば、新穂高ロープウェイの山頂は2,000メートルを超える。
車を少し走らせるだけで、季節を巻き戻ししているような感覚。
季節は“ひとつ”ではなく、グラデーションのように存在しているのだ。




そして、ようやく夏がやってくる。
地元のみなさんは暑いと言うけれど、都会で暮らしていたぼくには、別の季節だった。
日差しは強いけれど、空気は軽い。
風は涼しく、夕方になると、谷を下りてくる風がひんやりと肌をなでる。
熱帯夜はない。
コンクリートの熱も、ビルの照り返しもない。
代わりにあるのは、川の音。風の音。鳥の声。虫の声。
心地よい、気持ちのよい夏を知ってしまった。
都市部へ出張した帰り道のこと。名古屋市は、もう完全に夏だった。
半袖で汗をかきながら歩き、アスファルトから立ち上る熱気を感じていた。
ところが平湯峠を越えた途端、空気が一変した。
窓を開けると涼しい。山にはまだ雪が残っている。
まるで季節を一か月ほど巻き戻したようだった。
都市部は完全に夏。奥飛騨はまだ春模様。
そんな不思議な時差が、この土地には確かに存在している。
地元の方と話していると、「昔より雪は早く消えるようになった」と聞くことがある。
長く暮らしてきた人の中には、確かに変化が刻まれている。
それでも、自分にとっての奥飛騨の夏は、やっぱり特別なものだった。


そして2年目の今年。同じ道を走り、同じ景色を見たときにふと考えてみた。
移住したばかりだったから、珍しく見えていただけだと思っていた奥飛騨。
けれど、そうではなかったのだ。
平湯峠を越えた瞬間の感覚も。山に包まれる感覚も。残雪と新緑が重なる景色も。
今年も同じように心が動いた。はじめての奥飛騨と、同じ感情で、今年も夏を迎えている。
あのときの感動は、一度きりのものではなかった。
この土地で暮らす限り、毎年、少しずつ更新されていく景色なのかもしれない。
このコラムを書こうと思ったのは、観光情報を伝えたかったからではない。
あのとき自分が感じたこの感覚を、誰かにそっとお裾分けしたかった。
もし今年の夏、どこかへ旅に出ようと思っているなら、
あなたが知っている夏とは、少し違う夏がある場所があることを思い出してください。
あなたが知っている夏とは少し違う夏が、ここにはあります。
雄大な奥飛騨の大自然が、きっと静かに迎えてくれるはずです。
― 書き手 ―

河野 光 埼玉県出身。奥飛騨温泉郷観光協会 地域おこし協力隊。 外から来た視点で、この土地の魅力や違和感を、ずっと探している。 そして、今年もまた、同じように夏を待っている。























